子が親の介護をするのは「当然」か

 老人介護については、常日頃から考えていたのだけれど、以下の記事をみて、ここらでひとつまとめてみようかと思いたった。ただし、これから書くことについて、根拠となるような数字とかは特に調べてないし、考え方の土台は、ぼくの相当あやしい経済学知識ですのでw 
 にもかかわらずこうして放言するのは、理論的あるいは実務的に正しいか否かはともかく、ある「価値観」を示すこと自体にそれなりの「価値」があると思うからで、それを精緻化したり実用化するのは、また別の話。

読売新聞 YOMIURI ONLINE | 高齢者虐待、家庭内6%増…施設内は15%増


 2007年度の高齢者への虐待件数は、家庭内で1万3273件(前年度比6%増)、介護施設内で62件(同15%増)あったことが、6日公表された厚生労働省の調査でわかった。
 いずれの場合も被害者の8割が女性。家庭内虐待では、4割が息子による虐待だった。
 (……中略……)区市町村が把握した虐待による死亡例は、前年度より4件減って27件に。13件が介護者による殺人で、7件が介護放棄による死亡、4件が心中によるものだった。

現代の老人介護


 実際、虐待どころか介護殺人が増えている。「介護 殺人」でニュース検索すると、最近の事例もふくめかなりの数がヒットする。ともに老いた夫婦・親子間での介護者が披介護者を殺害する事件が増えるなど「老老介護」が社会問題化して久しいが、時代が下って現在は、団塊世代の親を30〜40代の子が介護するようになっている。

NHK総合テレビ | 特報首都圏「急増!シングル介護〜“非婚時代”にあなたは〜」


 高齢化と非婚化が進む中で親の介護を独身の子供がする“シングル介護”が増えている。仕事と介護の両立の困難さや支援を受けられることの厳しさなど、過酷な実態を描く。
◎出演:西東大、【ゲスト】津止正敏(立命館大教授)、【語り】掛川裕彦


 この番組では、仕事を辞めて親の年金で生活しつつ介護にあたる男性とか、認知症の親の介護のために夜間のパートに転職した女性とかが紹介されていた。たしかに彼ら30〜40代シングルが親の介護をする苦しさをとりあげること自体は有意義と思うが、いくらなんでも「非婚化」の部分をクローズアップしすぎな気がした。たしかにこの切り方なら、メインの視聴層が団塊世代であろうから、彼らの共感を得られやすいのだろう(例えば「ウチの子供も独身だから心配」とか)。だが仮にも介護を論じるのに、これでは問題を矮小化しすぎだと思う。
 そしてもっと問題なのは、非婚化を問題視することで事実上、「子が親の介護をする」ことを所与のものとしてしまっていることだ。そのくせ、締めに申し訳程度に介護保険制度の不備に言及して、「介護について社会全体で考えなければ」などと一応良識派っぽいことも言っとけというのは、いつものことながらムシがよすぎるのではないか。



家族介護が前提の介護保険制度


 「子が親の面倒を見るのは当然」というのが、仮に日本古来の伝統だったとしても、それは、「働けなくなった=隠居した親」の「生活」の面倒を見ることを主とした概念だった気がする。近代以前は、平均寿命も短く子沢山だったから、介護労働の需給バランスも低位均衡し、既存の人的リソースでまにあっていた。だからこそ「惣領(長男)の嫁が介護する」なんてこともできたのだろう。*1かかえきれなければ姥捨てという手もあった。
 しかし戦後、核家族化にくわえて少子化と高齢化が急激に進み、1970年代に老人医療から介護が分離され、さらに1990年代、介護保険制度が導入されるまでの間に、「働けなくなった=隠居」を「動けなくなった=寝たきり・認知症」に、「生活の面倒を見る」*2を「介護する」にいつのまにか意味がずらされていったのではないか。

 
 なぜ介護保険制度が導入されたかといえば、どうしても所管する厚生労働省が医療費の削減を至上命題としていることに思い至らざるを得ない。老人医療制度でみるにはコスト高な要介護老人を切り離し、介護保険によって新たに負担させる。これ自体は致し方ないといえなくもない。しかし、この制度は結局、要介護老人を病院から自宅へと送り返すことで、家族内の人的リソースを極限まで使い倒し、それでも足りない部分を施設介護と訪問介護でフォローする仕組みでしかない。2003年に介護報酬が減額され、ますます訪問介護サービスは敷居の高い物となり家族の負担が増大している。
 少子化の進行したこの日本で、家族を老人介護に動員すればどういうことになるか。親子共に疲弊し、虐待や、最悪介護殺人にまで至る場合もあることはわかりきっていたのではないか。



老人介護の大規模・「寡極」集中化


 ここで厚労省を批判しても意味は無い。かれらはただ「医療費を減らす」というオペレーションを忠実に実行しただけだ。では家族介護がダメなら、どうすれば良いか。それはやはり「大規模化」と、もうひとつは「集中化」だろう。
 介護は本来、労働集約的な産業だ。人件費の高い日本で労働集約的な産業は基本的に成立しないので、これを資本集約型に変えねばならない。そのためには可能な限り少数の大規模施設を基本とし、医療、介護、リハビリなどすべての医療関連の機能を集約すれば、従事者の人数をかなり少なくできるだろう。当然、その少数の大規模施設は中核としての大都市部に集中させねばならない。地方分権なんていうたわ言は忘れる。かといって一極集中ではなく「寡極」集中。このほうがより現実的ではないか。
 

 そうなるとまず、保険の運営主体が市町村であることが問題。地方分権を良しとする人々は、市町村を福祉を行う基礎的自治体とするべきだという。そのほうが利用者本位のきめ細かなケアができるというが、まったく意味不明だ。ケアをするのは介護者だろう。運営者は保険料徴収と給付を行うだけである。だったら運営主体は大きければ大きいほど良いのではないか。
 だから介護保険の運営主体は最低でも都道府県、できれば国にした方がよい。前述の通り、医療機関で要介護者をケアするのがコスト高だから分離したわけだが、保険料の徴収では、大きな機関が個人毎に管理した方が効率的だし、現場の介護ケアの面から言っても、病人と要介護者は結局地続きなのだから、医療と介護は相互に行き来できたほうがよい。「大規模化」と「集中化」をすれば、再び介護保険医療保険と統合することも可能ではないか。



ついでに徴税システムも変えてしまえば


 保険料の徴収は、所得に応じて、所得税、年金保険料とも一括して行う。*3税方式への財源一元化ではなく、あくまで別建てで徴収のみの一括化。国民総背番号の導入も必要か。それから相続税と資産課税もある程度強化する。消費税も食品などは非課税とし社会保険目的税とする。*4

 
 あわせて人口の中核都市近辺への移動もあらゆる手段で促進しなければならない。中核都市周辺に居住していないと、まともな医療や介護が受けられないとなれば、むしろ僻地に取り残されがちな高齢者ほど移動のインセンティブになるかもしれない。いっそ、これをテコに地方分権などきれいに捨て去って、一極ならぬ「寡極」集中国家を作ってしまえとすら思う。これなんかはid:HALTANさんとかがいつも言っておられることだけれども。これならマクロの資源配分の最適化でき、経済成長にも寄与できるだろう。



■参考にしたウェブ上記事


1:bewaad institute@kasumigaseki | 切込隊長さんのご指摘を受けて老人介護を考える(前編):戦後日本における老人介護の歴史


2:BI@K accelerated: hatena annex, bewaad.com | 切込隊長さんのご指摘を受けて老人介護を考える(後編):今後の考えられる対応

*1:ぼくの母親は「親の面倒は最期までみる」と言って、在宅で祖母の介護をしていた。しかし90歳を越した祖母は認知症が進み、さらに足を骨折して寝たきりとなった。それでも在宅で頑張っていたが、祖母がとうとう胃ろうで栄養を注入しなければならない状態になって、施設に入れざるをえなくなった。このぼくの母の例にしても、自身が専業主婦で、自分の産みの母親の介護だったからこそ頑張れたにすぎない。

*2:親の生活の面倒ですら、親と子の収入の多寡によっては絶対にみるべきとも言い切れない。特に団塊世代とそのジュニア世代の親子の場合、親の方が圧倒的に生涯所得が高い。月々でみても引退した親の方が高収入なんてザラなのではないか。

*3:介護に関しては、受益と負担を一致させるのはよくないように思える。医療なら、健康を害したのをある程度本人の責任に帰するのはわからないでもない。しかし、長生きしたことの責任をわずかでも本人に問えるだろうか。年金ならまだしも現役のうちに頑張って貯蓄して備えることができるが、「要介護にならずに早死にする努力」はナンセンスだ。

*4:消費税の社会保険目的税化に関しては、最近読んだ田中秀臣著『不謹慎な経済学』と、高橋洋一著『霞ヶ関埋蔵金男が明かす「お国の経済」』で言及していたが、両者まったく逆のことを主張していて困った。田中説は、財政のフリーハンドがなくなるから財務省はやりたがらないが「やるべきだ」、暗黒卿説は、地方に税源を渡さずに済むから財務省はやりたがっているが「やるべきではない」。ぼく的にはアンチ地方分権の立場から、田中説をとることとする。