無題


さっき、先日の混合診療についてのエントリに追記した。http://d.hatena.ne.jp/ko_chan/20080206/1202288750


書きながら、ふと死んだ田舎のばあちゃんのことを思い出した。
ぼくの母方のばあちゃんは開業医だった。なんというか、ある意味真っ正直な人(信仰を持っていたことも手伝ってか)で、不正請求などもってのほか、薬を処方する場合もいちばん安価なものを常に選ぶ医者だった。休みだろうが、夜中だろうが患者がいれば診てやっていた。誤診もあったそうだが、命のかかわるほどのことは幸いなかったらしい。
患者といえばたいがい近所の年寄りで、みんなして「先生はエライ、先生はエライ」と持ち上げるし、いっぽうTVドラマとかでは、典型的な儲け主義の医者を目にするものだから、子どものころのぼくは、世の中の医者の多くは悪どくて患者のことなど二の次…みたいな先入観を刷り込まれていた。「たらいまわし」報道とかも信じちゃってたなあ。成長とともにそうした偏見は是正されて、むしろ自分のばあちゃんのような医師のほうが多数派なんだとわかるようになった。
混合診療だの医療崩壊だのを考えるとき、つねに医師(町医者みたいなイメージかな)の理念型としてのばあちゃんの存在があって、自分の眼で見たものを正しく捉えたいという、そんな祈りに近い(ちょっとイタくもある)願望がある。だからぼく自身はまるっきり文系人間だが、医療の問題には関心を持たざるをえないのだ。
 

以下は完全に思い出話で、まとまってないのでスルーしてください。誰も読んでないとは思うがorz


ぼくのばあちゃんは大正生まれで、東京の女子医専(今の東京女子医大)を出て医師になった。いわゆる「職業婦人」ってやつで、パイオニア中のパイオニアだろう。当時の実家が機織りで財をなした資産家だったおかげもあるけど、やはり時代を先取りしてたと思う。
東京では、ハンセン病施設でボランティアのようなこともやり、キリスト教の洗礼も受け、その後大阪の病院で勤務医も経験したらしい(母親からのまた聞きなんではっきりとは分からない)。その後、家の跡取りだった兄弟が戦死しなければ、「家=イエ」を継ぐために田舎へ帰って結婚することもなかったかも。となれば当然これを書いてるぼくも存在してないことになる(ちなみにその後離婚、子ども引き取って育てたというから、いったいどこまで先取りしてるんだよ……)。まさに人に歴史あり、だ。
まあ、そんな人だったわけだが、医師として、また女性ながら地元の名士として尊敬されていたと思う。家業の機織りの方は、ご当主(ばあちゃんの父親)が気前の良過ぎる人だったせいか、産業構造の変化のせいか、ぼくが生まれるずっと前に、まあふつうに没落していた。
ぼくが子どものころのばあちゃんは、まだ60代の現役バリバリで、自分で車を運転して往診したりしていた(85歳くらいで医院をやめるまで、周りが止めるのも聞かず車に乗り続けてたな。最後の方は、ボコボコ事故りまくってたが)。だから何となく近寄りがたい雰囲気があったのか、ぼく自身はあまり甘えた記憶がない。年のはなれたぼくの妹や、他の孫たちは、比較的なついていたので、ぼくが子どもでなくなった頃、70歳を超えたあたりで、「現役」から降り、「おばあちゃん」化しはじめたのかもしれない。だからじかに話をしたりしたことはあまりない。大学進学と同時に実家を離れたまんまだったから。
自分自身が年を重ね、結婚して子どもが生まれなどするうちに、自分の両親やそのまた両親の気持ちがわかるようになると俗にいわれるけれど、親のことがわかるとか許すとかは別にして、自分のルーツたる人々が何をし、どう生きてきたかということは知っておいたほうがいいと思う。今日書いたことも、ぼくの母親が、寝たきりで痴呆もすすんでいたばあちゃんからようやく聞きだしたことだ。母親も「もう少し早く聞いとくんだった」と後悔していた。
同じようにぼくも後悔するのかもしれない。たとえば両親の出会ったころのこととか訊ねるのは、かなり面映いものがある。でも自分の子どものためにも、そのまた子孫のためにも、そういった個人史ってのは、伝えて残していかなきゃならないんだろうな。
さいわい現代は、ネットというものがある。こうして書いては蓄積し、互いに関連づけることもできる。直に聞いた話ではわからないことだらけでも、ネットのどこかにはひょっとしたら、ばあちゃん本人のことは無理にしても、戦後すぐの東京や大阪の病院だのハンセン病施設のことだのを知ってる人がいるかもしれない。親族が思いつきで自分史を自費出版、なんて事態も回避できるかもw 


なんか本格的にとりとめもなくなってしまったが、誰が読んでるわけでもないし、別にいいか……。